青森県の祭り

青森県の祭り 青森ねぶた祭

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弘前さくらまつり

弘前さくらまつりは、青森県弘前市で開催される弘前四大まつりのひとつである春祭り。
お城とさくらで有名な弘前公園は、弘前城跡が明治27年(1894)に一般に開放され、翌年に弘前公園となりましたが、明治41年(1908)に皇太子(大正天皇)が、弘前に来られており、鷹揚園(おうようえん)と命名されました。
弘前城は、藩祖津軽為信が築城を計画し、2代藩主信枚(のぶひら)が慶長16年(1611)に完成させ、以後明治維新まで260年間、弘前藩主の居城として、政治、軍事の中心となっていました。
弘前公園は、ソメイヨシノを中心に約五千本の桜が園内を埋めつくします。ソメイヨシノは本来、50~60年の寿命とされていますが、弘前の自然環境せいか、それ以上の長命です。薄紅色にどっしりと風格をただよわせる桜。古城の白壁、老松のみどり、そして夜間照明に照らされた夜桜の見物に、この時期、全国から観光客が集まります。

開催時期:毎年4月下旬-5月上旬(年ごとに変動)
会場:弘前公園
URL:弘前さくら祭り公式サイト 

八戸三社大祭

三社大祭は、八戸の最大の祭りです。「八戸藩日記」によりますと、享保6年(1721)7月19日、法霊社(おがみ神社)神輿を長者山へ渡御、同21日に帰社との記述があります。道中では、獅子舞、騎馬山伏、大神楽、などが催されています。その後、虎舞が参加し、また商家による太公望、武内宿禰(すくね)などの人形が参加するようになりました。明治時代以降、神明宮、新羅神社も加わり、従来の人形にかわって、町内単位による山車を製作するようになり、ほぼ今日のような形態となりました。
現在、お通り、お還りの神輿渡御には、各町内氏子、職域団体の参加による、多数の山車のほか、大神楽、権現様、虎舞などの民俗芸能や、稚児行列、武者行列などが続く県南最大の祭りとなりました。
山車の題材は、源平合戦などの軍記物から、歴史上の英雄、お伽話、神話、民話などバラエティーに富んでいます。山車の後部も「見返し」と称して、手作りの岩や、水玉の波しぶきなどを演出し、華麗なものになっています。

弘前ねぷたまつり

弘前市のねぷたは、描く絵のできばえを競うところに特色があります。とくに扇形とうろうの裏側には、凄惨な生首や鬼気迫る美人の送り絵が描かれ、これが中に入れた灯でゆらめくのが、独特な情緒をただよわせています。
江戸時代のねぷたは、扇ねぷたとは形がかなり違い、四角なとうろうが主体で、それにいろいろな飾りがつけられていたようです。今のように大型化したのは、文政年間(1818~1830)頃から弘化年間(1844~1848)にかけてだと言われています。弘化年間頃には、各町内ごとに大物づくりを競い、町内の人が総出で運行しました。大物になると道路いっぱいの幅で高さ約10メートル、ふちは厚紙でいろいろな模様を彫り抜き欄干などをつけたと伝えられています。
弘前ねぷたは、町内会・愛好会が競い合い、笛・太鼓の囃子につれて「ヤーヤドー」のかけ声で引き歩き、囃子は行進・休み・戻りの3種類を奏します。昔は七日に岩木川に持っていき、ねぷたを流しました。

青森ねぶた祭

津軽のねぶたは、青森市・弘前市・五所川原市のほか、黒石市・鯵ヶ沢町・木造町・金木町・板柳町・藤崎町など各地で、広く行われています。
もともと、ねぶたは七夕の行事ですが、起源にはいろいろな説があります。坂上田村麻呂が蝦夷征伐のさい、蝦夷を威嚇するためという説が広く行きわたっています。しかし田村麻呂が青森県に来た事実はありません。田村麻呂の英雄伝説の一つでしょう。また藩祖津軽為信が、京都に滞在中の文禄2年(1593)七月の盂蘭盆(うらぼん)にお国自慢のため、重臣服部長門守に約4メートル四方の大灯篭を造らせ「津軽の大灯篭」として人気を呼んだのが、始まりだという説もあります。
ねぶたは古くから津軽地方の人々に親しまれてきました。記録によれば、五代藩主信寿(のぶひさ)が、弘前亀甲門でねぶたを見物したことや、九代藩主寧親(やすちか)が亀甲門の前で剣士に御前試合をさせ、勝った方が相手剣士のねぶたをとるという争奪戦をさせたこともあったようです。この争奪戦が、のちにねぶた喧嘩になったとも言われています。ねぶた喧嘩は明治になって一層激しくなりました。明治6年時の知事菱田重喜によって、野蛮な悪風だと禁止されたこともありました。
青森ねぶたは武者人形をかたどる細工に苦心が要します。笛・太鼓の囃子に「はねと」が一団となって練り歩きます。まさに陽気なカー二バルです。

五所川原立佞武多

青森県の西部、津軽半島の入り口に位置する五所川原市。この市の西に流れる広大な岩木川の河川敷に、平成8年、高さ20メートルを超える明治時代末期の巨大ねぷたが復元されました。タイトルも「五所川原立佞武多」。制作者は三上真輝さん。
三上さんは、たまたま明治時代の巨大ねぷたの、古写真を見たことからその夢がひろがっていきました。4人の仲間とともに、「立佞武多」を作る会を結成。日々の仕事を終えてからの制作でした。
立佞武多は、青森ねぶたと異なり、1台が数年間運行されるため、祭りが終わると秋から修復作業にはいります。また来年の構想と下絵つくりは、1月から3月にかけて行なわれます。
五所川原市では、駅前や繁華街に巨大な立佞武多を運行させるため、電線を移設してコースを確保しました。現在、五所川原市役所の隣に立佞武多製作所が設けられています。そして毎年、新しいテーマによる立佞武多を制作する熱の入れようです。
三上さんのロマンと情熱による立佞武多は、多くの人々に感動をあたえています。

お山参詣

岩木山の登拝行事 岩木山神社 神賑祭(お山参詣)
青森県中津軽郡岩木町百沢  旧8月1日(9月初旬頃)
神賑祭は初春と仲秋の二回あります。旧暦の正月七日と八月一日です。先の神賑祭は里宮の、後の神賑祭が奥宮の祭りです。里宮の祭では、柳の行事・宝印の行事・三拍の行事・散米行事などがあります。奥宮の祭りは、岩木山の山頂で旧暦八月朔日(ついたち)の御来迎を遥拝する、これをお山参詣と言っています。
旧暦八月朔日前後は、その年の作柄も見当がつき稲刈りに間のある時期です。農家の人々が一村隊をなして、「さいぎさいぎ、どっこいさいぎ、お山さはつだい、こんごうどうさ、一になのはい、南無帰命頂礼(なむきんみようちようらい)」と唱えながら、笛、太鼓の賑やかな登山囃子をはやしながら、山に登っていきます。
近年はビ二―ルの御幣(ごへい)もみかけますが、初参りは青・赤・黄などの色まぜ、二回以上は白、五回以上は銀、七回以上は金と色が決められています。旧八月朔日に御来迎を拝んだ人は、果報に恵まれると言われています。
登山の時は白装束に手甲脚絆で、下山には衣装を凝ります。女性の赤じゅばんをまとったり、彩色の紙烏帽子にひょっとこの面をつけたりして、山いただから採った五葉の松をかざし「ばたら、ばたら、ばたらょ、いい山かけた・・・・」と口々に唱えて下山してきます。こうして山の神さまに祈願と感謝の奉納の行事が終わるのです。