弘前の概要
弘前(青森県弘前市)は、青森県の西部に位置し、人口では青森市、八戸市に次ぐ県内第3位の都市です。近年では岩木町・相馬村も吸収し、市の面積は一気に拡大しました。江戸時代初期に津軽信牧がこの地に城を築いたことから城下町として繁栄し、明治時代に青森から弘前までの鉄道が整備され、青森県西部を代表する都市となっていきました。弘前は、りんごの生産量が全国一で約20%を占め、りんごにこだわる街づくりを目指し「りんご色のまちHIROSAKI」をキャッチフレーズとしています。また、弘前公園で開催される弘前さくらまつりや弘前城も全国的に知られています。8月には、国の重要無形民俗文化財に指定されている「弘前ねぷたまつり」が開催され、毎年100万人以上の人出があり、弘前を代表する夏祭りとなっています。弘前の位置と地勢
弘前(弘前市)は、青森県の西南部に位置し、総面積524.12k㎡の内陸型地域です。 東に奥羽山脈の八甲田連峰を望み、西に「津軽富士」と呼ばれる青森県最高峰の岩木山を有し、南には、秋田県にまたがり世界遺産に登録されている白神山地が連なります。山々に囲まれた平野部においては、白神山地に源を発し、やがては十三湖を経て日本海に注ぐ県内最大の流域面積を持つ一級河川岩木川が、約30kmにおよび北流しています。この岩木川には平川、浅瀬石川が合流し、流域の肥沃で広大な津軽平野は青森県内屈指の穀物生産地域を形成しています。また、平野周辺部の小高い丘陵地帯には、県の基幹農産物であるりんごの約4割を生産する樹園地が5.44k㎡にわたり広がり、更には、その樹園地を取り巻くように山林地帯が伸び、緑豊かな自然環境に恵まれた地域となっています。
- 位置
- 東経140度9分~36分 北緯40度28分~45分
- 標高
- 弘前市役所 44.4m
- 広ぼう
- 東西37.6km 南北32.7km
- 面 積
- 524.12k㎡
弘前の歴史
弘前のまちは、戦国時代の津軽氏の台頭にはじまります。
南部氏の一族、南部光信は延徳3年(1491年)に種里(現・鰺ヶ沢町)に入部し、文亀2年(1502年)に大浦城を築城しました。その後、為信の代になって津軽一円を領有し、津軽氏を称しました。
初代藩主となった為信は、文禄3年(1594年)に堀越城に本居を移しますが、京都で客死します。その後2代藩主信枚(のぶひら)が、慶長16年(1611年)に弘前城を築き、城下町弘前が誕生しました。以後、明治維新までの約260年間、津軽地方の政治・経済・文化の中心として繁栄します。
12代藩主承昭(つぐあきら)のとき明治維新が起き、明治4年(1871年)月、廃藩置県によって「弘前県」となりますが、9月には弘前県は青森県と改称され、県庁も弘前から青森へと移りました。
明治22年(1889年)4月に市町村制が実施され、全国30市とともに旧弘前市が、また、同じく旧相馬村が誕生しました。 明治27年(1894年)には弘前・青森間に鉄道が開通し、31年(1898年)に第八師団司令部が設置され軍都としての歩みを続け、大正10年(1921年)には官立弘前高等学校(現在の弘前大学)が開校しました。
弘前は、幸いにも戦災をまぬがれて終戦を迎え、昭和30・32年(1955・1957年)の市町村合併では、旧弘前市が周辺12町村と合併、昭和30年には当時の駒越村・大浦村・岩木村が合併し旧岩木村となり、その後、昭和36年(1961年)の町制施行で旧岩木町が誕生しました。さらに、平成18年2月27日、人口の減少や少子高齢化の進展、日常生活圏の拡大、行政ニーズの多様化・高度化、厳しい財政状況などの地方を取り巻く大きな環境の変化に対応し、これらの課題に的確に取り組み、住みよい地域社会を実現するため、弘前市、岩木町、相馬村の3市町村が合併し 新しいまち「弘前」が誕生しました。
現在まで約400年の歴史を歩む弘前のまちは、お城とさくらに代表される数々の文化遺産と、恵まれた自然環境を土台に文化都市として発展し、現在では、弘前大学をはじめとした5大学と1短期大学、10の高等学校を有する東北屈指の学園都市として成長を遂げる一方、りんごと米の田園都市、全国一のりんご生産圏としての地歩を築いています。
地名「弘前」の由来
弘前は、以前「高岡」とか「鷹岡(鷹ヶ岡)」と呼ばれていたということです。これは、城地が高台にあることや、昔は鷹が営巣していたというところに由来があるようです。高岡が弘前に改称された理由は、はっきりしていません。ひとつには、北海道への海上交通の要地で、その地勢が広大なところから「広崎」と呼び、それが「弘前」になったという説や、十三岬から松前までの海を尾閭(びろ)」と呼び、十三岬を「尾閭ヶ崎」と呼んでいたのをとって「弘前」としたという説のほか、イギリス人チェンバレンが唱えたアイヌ語に起源があるという考え方などがありますが、いずれも明らかではありません。「信枚君一代之自記」には、「弘前」という名称が用いられたのは、寛永5年(1628年)の8月20日からと記録されています。
~『弘前市史 藩政編』より~